凍てついた風に頬を赤く染めながら、少年は細心の注意を払いながら森の中を歩いていた。
くすんだくせ毛の金髪は、風に吹かれるたびにふわふわと揺れている。昼だというのに薄暗い森の中は、少年にとって恐怖の対象でしかなかった。特に曲がりくねった木の枝は、まるで罪人が落とされるという地の底から伸びてきて、こちらに来いとでも言うように手招きをしているようにしか見えない。けれど、少年にはどうしてもこの森で手に入れなければならない物があるのだ。例え彼の命に代えてでも。しかしその固い決意に反して、彼の体は小刻みに震えていた。足を止めては駄目だ。森に住む魔に喰われる。いや、それ以前に……。恐怖に押しつぶされそうになりながら、大木の幹に寄りかかり、少年は大きい息をつく。かじかんだ手に白い息を吹きかけ、再び足を踏み出そうとする、その時だった。「こんなところで何をしてる? 早く戻らないと死ぬぞ」突然聞こえてきた耳慣れぬ男の声に少年は驚いて飛び上がり、その場にうずくまるようにして土下座する。そして、手に握りしめた草を頭上に掲げながら、森中に響くほどの大声で叫んだ。「ごめんなさい! 勝手に森へ入るのを禁じられているのは知ってます! けれど、どうしても母さんに薬草を……。せめておとがめは母さんにこれを飲ませてからに……」しばし沈黙が流れる。どうも様子がおかしい。おそるおそる少年は顔を上げる。次の瞬間、思わず彼は飛びすさっていた。見たこともない男……おそらくは先ほどの声の主が、ひざまずいて彼の顔を覗き込んでいたからである。「な……何ですかっ!? あなたは、一体!」大木の根元に腰を落としながら、少年は男に向かい叫ぶ。そして、その男の様子を注意深く観察した。毛羽立ったフード付きマントと生成(きな)り誰もいなくなった部屋で、アルバートは何をするでもなく立ち尽くしていた。 この部屋に幽閉されていた人は、自分の目の前で突然やって来たルウツからの使者によって連行されていった。 一切抵抗することなく引き立てられていくそのさまは、自らの運命をすべて受け入れるかのようだった。 思わず呼び止めたその時、その人はこちらを向きただ一言、アルバートにこう告げた。 机の上に置いてある短剣を聖地が見える丘に埋め、自分の墓を作って欲しい、と。 そう言うその人の顔には、今までに見たことがないほど穏やかな微笑を浮かんでいた。 けれど、アルバートはその依頼に明確な答えを返すでもなく、かと言って助けに入ることもできなかった。 そんなアルバートに今までの謝意を告げようとしていたあの人は、有無を言わさずに枷に繋がれ鎖を架けられていく。 そして、抵抗することなく罪人のように引き立てられていくあの人を、アルバートは何をするでもなくただ見送ることしかできなかった。 人を助けるために神官になったにもかかわらず、だ。「──……!」 不甲斐ない自分自身に覚えた怒りに任せ、アルバートは壁を力任せに殴りつけていた。 当然のことながら壁はびくともせず、その拳から、わずかに血がにじむ。 自然と涙がこぼれるのは、拳の痛みからなのかそれとも何もできなかった悔しさからなのか、アルバート本人にもわからなかった。 「師団長殿……? いかがなさいました?」 前触れもなく聞こえてきた背後からの声に、声もなく泣いていたアルバートは驚いて身体ごと振り返った。 部屋の戸口にはいつの間にか、驚いたような表情を浮かべるヘラの姿がある。 あわててアルバートは涙を拭い、わずかに上気する頬を隠すように視線をそらす。 そして、つとめて冷静な声で答えた。「……申し訳ありません。お見苦しいところを……。一体どうしてこちらに?」 謝罪の言葉に、首を左右に振るヘラ。 そして、何事も無かったかのように一通の書状をアルバートに向かい差し出し
ロンドベルト配下のイング隊が駐留する『墓所の街』からアレンタの行政庁が置かれている主府までは、馬で往復約二刻半。 その上、無駄な儀礼が執り行われるので、都合一日は確実につぶれる。 一刻も早く軍を展開し敵を殲滅せよというなら、命令書など早馬で届ければ良いものを、とロンドベルトは帰途の馬上で一人ごちる。 いつものことなので副官のヘラは苦笑を浮かべて流していたが、ふとその顔から笑みが消えた。 前方から、蹄(ひづめ)の音が聞こえてくる。 ただならぬものを感じ、ヘラはそのままロンドベルトを護るように馬を進める。 が、ロンドベルトは常と変わらぬ口調で告げた。 賊ではない、と。 その場に留まることしばし。 果たして馬を飛ばしてきたのは、一人の伝令だった。 「一体何事だ?」 冷静に問うロンドベルトに、伝令は転がるように下馬するや否や、ひざまずいてこう告げた。 「申し上げます。ルウツのオトラベスより使者が参りました!」 その言葉に、ロンドベルトの表情がわずかにこわばる。 「使者が言うには、お客人はルウツ皇帝に仇なす反逆者とのこと。ルウツへの引き渡しを要求されております」 瞬間、ロンドベルトはわずかに色を失ったようだった。 なん時も冷静さを失わないその人が。 驚いたように見つめてくるヘラに、ロンドベルトは問うた。 「お客人のことを、いずれかに通告したのか?」 だが、ヘラは首を横に振る。 「いいえ。私は閣下のご意向に反することは一切行っておりません」 では、一体誰が。 随行の者達も、一様に首を振る。 確かに、あの異国の神官には皇帝直々の手配書が出されている。 ルウツに連行されれば、間違いなくその命は無いだろう。 「私は先に行く。副官は皆と共に後から来い」 「わかりました」 ヘラが返答するより早く、ロンドベルトは馬の腹を蹴る。 一体、何が起きたのか。
皇宮を取り囲む木々の中を、公爵は迷うことなく歩を進める。 一体どこへ向かっているのか見当もつかぬまま、ジョセはその後を追う。 やがて、急に視界が開けた。 かすかに聞こえる水音の方に目をやると、白い石で設えた噴水が忘れられたように飛沫を上げている。 「……ここは?」 宮中にこんなところがあったとは。 何故公爵は、自分も知らないこんな場所を知っているのか。 驚いたように周囲を見回すジョセに、公爵はにっこりと笑って答えた。 「さしずめ、秘密基地と言ったところでしょうか」 子どもの頃、殿下に呼び出されて良くここに来たものです。 言いながら公爵は、懐から小さな包みを取り出し、ジョセに差し出す。 「これは?」 いぶかしげな表情を浮かべつつも、ジョセはそれを受け取る。 注意深く包みを開くと、中から出てきたのは銀の指輪だった。 「……お探しのものは、おそらくこれでしょう?」 そう言う公爵の顔からは、既に笑みは消えている。 だが、ジョセにはまだ意味がわからない。 失礼、と断りを入れてから、指輪を手に取る。 そして、あることに気がついた。 「これは……」 ジョセは思わず言葉を失う。 なぜなら、指環には紛れもなくルウツ皇帝の紋章が刻まれていたからだ。 そう、本来これは、皇帝だけが持つことを許される物、つまりは印璽である。 それを何故、血縁者とはいえ一介の公爵が持っているのだろう。 疑問を抱きつつ、ジョセは公爵を見やる。 と、その顔には今まで見たことがない鋭利な表情が浮かんでいた。 「先代……父から死の間際に託された物です。残された唯一の証拠だ、と」 「それは、一体……」 ジョセの問いに、見ればわかりますよ、と公爵は答える。 その言葉に従い、ジョセはさらに指環を注意深く見つめる。 常ならば穏やかな光をたたえている灰色の瞳は、ある一点を凝視し
マリス侯が思わずそちらを見やると、一人の青年がこちらに向けて歩み寄って来るところだった。 そのいぶかしげな視線を気にするでもなく、青年はにこやかに笑いながら話し始める。「何と素晴らしいことではありませんか。本当に大司祭猊下の慈悲深さには、いつも頭が下がる思いです」 どこか芝居がかった口調に、大げさな仕草。 赤茶色の巻き毛に青緑色の瞳を持つその人は、他ならぬやんごとなき人物の血縁者であることを示している。 その姿を認めたマリス侯は反射的に浮かんだ忌々しげな表情を隠すようにわずかに頭を垂れ、やや嫌味と皮肉を込めた口調で言った。 「フリッツ公爵閣下……。こちらにいらしていたのですか? 一体何事でしょう、先程の御前議会ではお見かけしませんでしたが、火急のご要件でもございましたか?」 そう。 両者の前で脳天気とも言える笑みを浮かべるのは、貴族のみならず一部の市民からも父親譲りの暗愚と噂され、二代目愚昧公などと陰口をたたかれている皇帝の従兄、フリッツ公イディオットその人だった。 マリス侯から投げかけられた痛烈な皮肉と嫌味を、話をふられたと思ったのだろうか、公爵は目を輝かせ立て板に水の勢いで話し始める。 「実は先日宮殿の開かずの間から、始祖ロジュア・ルウツ大帝の肖像画が見つかったとうかがったものですから、ぜひとも拝見したいと思いまして。いや、今まであんなに素晴らしい作品は……と、失礼」 向けられてくるマリス侯とジョセからの困ったような視線に気付き、フリッツ公はようやく口をつぐむ。 そして、宰相に向き直ると再び満面の笑みを浮かべる。 何事かとわずかに身構える宰相に向かい、フリッツ公はちらとジョセを見やってからこう言った。 「これはもう反対する理由は無いでしょう。加えて信仰心に篤(あつ)いジョセ卿が聖地で祈って下されば、長らく続く両国の争いにこの上ない後押しとなりましょう」 違いますか宰相殿、と無邪気に笑うフリッツ公。 だが、話には筋が通っており反論する余地もない。 表情を隠すかのように咳払いを一つすると、宰相は努めて平板
皇国の実権を一手に握り、思い通りにならぬことは何一つないと周囲から目されていた宰相マリス侯は、このところ少し迷っていた。 いや、迷うと言うよりは悩んでいた。 彼を不穏な思いにさせていたのは、他ならぬルウツ皇帝のメアリである。 病弱ではあるものの極めて優秀で、物事を判断するには常に理性と論理が先に立つ少女、それが彼が初めてメアリに拝謁した時に抱いた印象だった。 考えるよりも先に行動を起こし、理論よりも感情が先に立つきらいのある妹姫のミレダよりも、理知的なメアリの方が一国を支える皇帝にふさわしい。 そう判断したからこそ、マリス侯はメアリに忠誠を誓うことを決め、結果メアリは皇帝に即位し、自身は現在の地位を手にしたのだ。 だが、宰相の予想に反してメアリはその内面に恐るべき秘密を孕んだ人間だったのである。 打てば響くような聡明さは、その恐ろしい本性を覆い隠す仮面に過ぎなかった。 その仮面の下には、幼い子どもが持つ独特の残酷さが巧妙に隠されていたのだ。 成長と共にそれは収まるどころか増大し、今では細い一本の糸で理性を保っているようにも見受けられた。 悪いことに、女帝の心に淀(よど)むどす黒い闇は、このところ更にその深さを増しているように宰相には思えた。 女帝の中で沸き上がる負の感情は、近いうち彼女自身を飲み込むやもしれん。 そんなことになれば、この国の先行きは危うい。 おぼろげながらにそう感じたのは、先の御前議会の時だった。 絶対的な司令官不在のため、まともに動けるかどうかも怪しいにもかかわらず、自らの私怨から蒼の隊の出兵をごり押しし、あまつさえ総大将に妹姫を指名するなどと……。 その時の様子を思い出して、宰相は深々とため息をつく。 言うまでもなく、皇帝には今のところ伴侶はおらず、当然その血を受け継ぐ者はいない。 先帝崩御の後、皇位を脅かすであろう人物に血の粛清が下った今、皇家に連なる血を持つ人物は、妹姫ミレダと、暗愚と噂される皇帝姉妹の従兄フリッツ公イディオットのみであるにも関わらず、だ。しかも、フリッツ公は臣籍であるため、継承権を有していない。 皇帝に万
ふと人の気配を感じて、大司祭カザリン=ナロード・マルケノフは教典のページをくる手を止めた。 顔を上げると、戸口に立つ人物と視線が合う。 穏やかな面差しで入るようにうながすが、来訪者は立ちつくしたまま動こうとしない。 一体、どうしたのだろう。 疑問に思いながらも、大司祭は常と変わらぬ静かな口調で語りかけた。 「どうしたの? お入りなさいな」 声に応じて長身を屈め一礼したのは他でもなく、ルウツ神官騎士団長のアンリ・ジョセだった。 しかし常とは異なり、今日は白銀の甲冑姿ではなく、神官の制服とも言える飾り気の無い質素な長衣をまとっていた。 柔らかく微笑む大司祭に対し、だがジョセは表情を崩すことなくわずかにうなずくと、後ろ手で扉を閉める。 なおも所在無げに戸口に立ち尽くすジョセに、大司祭は無言で座るよう促した。 再び一礼し腰をおろすなり深々とジョセは溜め息を吐き出す。 それからようやく彼は、重い口を開いた。 「……宮廷は、まさに伏魔殿ですね。ミレダ殿下が今までご無事でおられたことが、不思議なくらいです」 投げかけられた言葉に、大司祭は悲しげに眉根を寄せる。 それは、予想通りの反応だったのだろう。 更に深い吐息を漏らすと、ジョセはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して、卓の上に広げた。 「どこで誰が耳をそばだてているやもしれません。私が申し上げたいことは、すべてここに」 万一何者かに聞かれれば、我々の命も危うい、そうジョセは言外に告げていた。 理解した大司祭は、紙上に視線を落とす。 文字を追うその顔は、目に見えて青ざめていく。 それは他でもなく、先帝の崩御(ほうぎょ)にまつわる様々な噂だった。 先帝は病死ではなく、毒殺されたということ。 毒を盛った人物は先帝と深い関係がある人物であるということ。 その人物は、今至高の冠を戴いている存在であるということ。 大司祭の顔は、目に見えて青ざめていく。